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2007年  7/27 亡き人との対話

2006年  7/16 欲から願(がん)へ

2005年  4/23 この矛盾的存在

  8/1 なぜ人を殺してはいけないのか

  6/30 一番大切なもの

↑  5/20 カネとキン

2004年  4/1 輝いて生きる

  8/31 仏教徒の生き方

  6/12 観音様の心

  5/2 不殺生

↑  3/22 おのれこそ

2003年  3/14 いかなる戦争も反対する!


2007/07/27(金)

亡き人との対話

(真言宗智山派「生きる力 41」松平山主原稿より)

 


夏は亡き人がよみがえる季節です。
7月13日から15日(あるいは月遅れの8月13日から15日)のお盆、8月6日・ヒロシマ、8月9日・ナガサキ、8月15日・終戦記念日、お盆に前後して施餓鬼会、夏は亡き母、亡き父、戦死した兄、病で逝った妹、志半ばで逝った友人、とにかく亡き人々をしのぶ日々が続きます。
仏壇の前、あるいは墓前で手を合わせれば、瞼には元気だったころのお姿がそのままよみがえります。

亡き人とのしばしの語らいは、まずは現状報告です。
喜びごとはもちろん、ついつい悲しいこと、苦しいこと、辛いことを愚痴ります。
しかしその語らいの中で決まって亡き人がその愚痴を浄化してくださって、私たちに良き道しるべをお示しくださいます。


お釈迦さまの十大弟子のお一人、目連さまもまた得意の神通力で亡き母をしのばれました。
驚いたことに、醜い餓鬼の姿になりはてておいでになりました。

そこで、お釈迦さまにお尋ねすると、お釈迦さまはこうお教えになりました。
「おまえの母は、わが子可愛さのあまり、他を思いやることもせず、自己中心的な行為が多かった。
 その報いで餓鬼の世界に堕ちられた。
 救う手立ては一つ。
 まもなく7月15日、自恣の日(雨季の修学期間の最後の日に、たくさんの衆僧が一同に会し、自主的に懺悔《自己反省》して清浄僧になる日)がくる。
 その衆僧に分け隔てなく供養せよ。
 その供養の功徳によっておまえの母は救われる。
 ただし、母さえ救われればいいというのでは、元の木阿弥。
 七代にさかのぼってご先祖を供養し、母と同じ餓鬼の世界で苦しんでいるすべてが分け隔てなく救われるようにと願って供養せよ」

目連は亡き母をしのぶことによって、懺悔の大切さ、内にしか向かない眼を広く他に向ける利他の心、先祖供養の尊さに気づかせていただいたのです。
いや、目連の母はわが身が餓鬼の姿になりながらも、なおわが子に大切なことを気付かせる母の愛を貫いたのかもしれません。


2006/07/16(日)

欲から願(がん)へ

(「**」より)

 


「現代の世相を的確にあらわす表現はありませんか」と問われると、私は迷わず「現代は、かけたい時がかける時、食べたい時が食べる時」これでどうですかと答えています。

たとえば電話です。
かつて、私の子供の頃はちゃんと黒い電話線につながっている電話のところに行かなければ、電話を受けることもかけることもできませんでした。
家族に緊急連絡があって、早く知らせたいとあせりながら、あちこち公衆電話を探しに探して、あげくの果てに交番に泣きこんだ、ということもまだ十年ほど前にはありました。

今は昔です。携帯電話の普及で「かけたい時がかける時」になりました。

かつては三度の食事という言葉がありました。
食事の時間に間に合わなければ、「食いっぱぐれ」ということもしばしばでした。

しかし、これも今は昔です。
コンビニエンスストアー、ファーストフード店の登場で、24時間365日いつでも「食べたい時が食べる時」となりました。

現代はまさに思うことが思うときにでき、欲しいものが欲しいときに手に入る時代です。
待つこともなく、辛抱することもなく、我慢することも必要なく、即時に欲が満たされる、まさに「夢のような時代」となりました。
しかし、そこで大きな溜息(ためいき)です。
果たしてそれで幸せになれたのか?ということです。

残念ながら夢のような時代を迎えて、現代人は確実に品性品格を失いました。
早い話が下品になったということです。
上品と下品の違いは
「上品は限りなくましな人間になる。辛抱我慢こらえる耐える、総じてルールを守る、待つことができる。」
「下品は限りなく動物的になる」。
動物はしたい時にします。食いたい時に食ってます。人が見ていようが見ていまいがそんなことは知ったことじゃない。

まさに今、電車の中は動物園です。
あたりかまわず大声で話していたり、扉の前でしゃがみこんでいたり、化粧を始めたり、携帯電話はかけ放題、フアーストフードは食べ放題、本当に呆れるような風景がよく見受けられます。
総じてルールが守れない、待つことができない、辛抱我慢耐えることができないのです。

しかし不思議なことに現代人は欲しいものが欲しいときに、思うことが思うときに出来ても決して生き生きとはつらつと輝いて日常生活をしていません。
総じてつまらなさそうな顔をして白けきっています。
どうも欲を満たすだけでは幸福にはなれないようです。

何が足りないのかと考えれば、なんと言っても「願(がん)」でしょう。
願とは夢、理想、目標、祈りです。
人間はこの夢、理想、目標、祈りがなくては生き生きと輝けないのです。
「願」があるかないか。

願に向かって限りなく近づいていく営み、これこそが人生といっていいでしょう。


2005/04/23(土)

この矛盾的存在

(真言宗智山派発行「生きる力 **」松平山主原稿より)

 


 人は誰でも願って生まれてきたわけではありません。
生んでくれと親に頼んで生まれてきたのでもありません。
気が付いてみたら生まれていたのです。

 自分の誕生のドラマを自分の願うとおりに脚色できた人は一人もいません。
誰も生まれたときの条件を一つとして変更できません。
すべて無条件に引き受ける以外に道はないのです。

 そしていったん生まれたら、誰でも死ぬまで生きねばなりません。
人生辛いからといって途中で止めるわけにはいかないのです。

 いや、人生は捨てたものではありません。
楽しいこと、嬉しいこと、感動、感激いろいろあります。
断ちがたいもの、捨てがたいものも一杯できます。
しかし、いずれ誰でも死ななくてはなりません。死にたくないのに死なされるのです。
まさに命も人生も矛盾的存在です。思うとおりにはならないのです。

 そこで仏教では「人生は苦」と断じます。
苦とは自己矛盾、人生は思うとおりにならないことだらけです。
思うとおりにならないことを思うとおりにしようとすれば、苦しみは深くなります。

 思うとおりにならないわけは、諸行無常諸法無我」のなせるわざです。
一語でいえば「縁」という力が働くからです。
「縁」を私は「自分の意志と努力で到底及ばないところで決定される条件」と説明しています。
縁の力で人生は大きく左右されます。

 縁をどのように受けとめるかが人生の課題でしょう。
思うとおりにならないことを、がむしゃらに思うとおりにしたいとあがきがちの私ですが、縁を正しく受け止めて、自分のできることは精一杯やらせていただくという生き方ができたらいいなと思っています。





諸行無常(しょぎょうむじょう)

およそこの世に存在するもので同じ状態にとどまるものは一つもない。すべてのものが一瞬一刻変化してやまない。誰でも老病死を免れないんです。

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諸法無我(しょほうむが)

およそこの世に存在するものはそれ自体では存在できない。限りない条件が整って存在する。オレがオレがと我を張れば嫌われる。自分が生きるのではなく自分は生かされて生きるんだなあ……

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2004/08/01(日)

なぜ人を殺してはいけないのか

(真言宗智山派発行「生きる力 29」松平山主原稿より)

 


 母校の親子講演会に招かれました。
自分の小学生のころの話を一通りした後で本題に入りました。

「みんなにとって一番大切なものはなんですか」と質問したら、「いのち!」と元気よく答が返ってきました。
「そうだよね。〈いのち〉に勝るものなんてないよね。正解で〜す……」と余裕をもって話してはいたのですが、一年生の男の子が手を挙げて、「いのちって何ですか」とまた元気な声で質問をしてきました。
こちらは予想外の展開に一瞬たじろぎましたが、苦しまぎれに「〈息の力(いきのちから)=つまり、いのち〉」なんだよ」と答えました。
そう答えた以上、それからはその説明に終始する羽目となりました。

「友達から〈いのち〉を見せてと尋ねられても簡単に見せてあげられるよ。『ハー』と息を吹きかければいいんだからね。息の力は〈生きる力〉さ。死んだ人は『ハー』と息を吐くことなんてできないからね」

 そこで今度はこちらから質問をしました。
「ところでこの息の力・いのちは誰から戴いたの」
「お父さんとお母さんです」
「ではお父さんとお母さんは誰からいのちを戴いたんだろうね」
「おじいちゃんとおばあちゃんです」
「ではおじいちゃんとおばあちゃんは誰からいのちを戴いたんだろうね……」
「そのまたおじいちゃんとおばあちゃんです」
「そうなんだよね、いのちはずっとつながっているんだよ。大昔からずっとね。一度も切れたことはないんだよ。
 だから自分のいのちなんだけれど、自分のいのちだからといって粗末にしてはいけないよ。
 自分のいのちであって、自分のいのちではないんだよ。
 数限りないいのちがつながって戴いたいのちだから、大事に大事に精一杯生きなくちゃね。
 自分のいのちがそうなら友達のいのちだって同じさ。全世界のいのちだってみんな同じさ。

 お家へ帰ったらいのちについて、じっくり家族みんなで話し合ってね。では今日はこれでおしまい。元気でね」


2004/06/30(水)

一番大切なもの

(真言宗智山派発行「生きる力 28」松平山主原稿より)

 


 「一番大切なものは何ですか」
と問われたら、「いのち」と誰でもお答えになるでしょう。
「いのち」よりも優先する大切なものはないはずですよね。
しかし、結構人間は欲にとらわれ、目先の仕事にとらわれ、人間関係のしがらみにとらわれ、「いのち」をないがしろにしてしまいます。
新聞の三面記事をにぎわす犯罪は全て大切なものの優先順位を間違えた結果でしょう。

 子供が夢中になる漫画やアニメ、ゲームの世界では、殺人ごっこ、生き残りゲームなど、一番大切なものの優先順位を混乱させるものが多いですね。

 2500年前にお釈迦さまはいかなる理由があろうとも、「不殺生」をまず第一にお説きになりました。
「殺すな」「殺させるな」「いのちを大切にしろ」。
とにかく「いのち」を大切に精一杯生きる、これが縁あってこの世に生を受けたものの「使命」なんだと。
誰でも「いのち」は一個、「今、ここ、私」の接点は常に最初で最後、巻き戻しも早送りもできません。

 日本は医学医療の進歩、生活水準の向上などのおかげでとにかく世界一の長寿国になりました。
しかし、勘違いをなさっている人も多いようです。
以前よりは少し長く生きられるようになったというだけで、死ななくなったわけではありません。
必ず死ぬという有限性といつ死ぬかわからないという危機性はお釈迦さまの時代とちっとも変わりはありません。
生を受けた以上、必ず、老い、病み、死ぬ、そして、いつ死のその時がやって来るかは誰にもわかりません。

 ハイテクの現代にして2001年9月11日午前8時45分、ニューヨーク・マンハッタンのワールドトレードセンターで仕事中の人々も、1995年1月17日未明5時46分、阪神淡路地方の人々もその時を知らなかったのです。

 せめて私どもにできることは、「不殺生」です。
他の「いのち」も自分の「いのち」も同じ、決して意図的に他の「いのち」を損なわないこと。
アメリカ国籍の人の「いのち」もイラク国籍の人の「いのち」も「いのち」に軽重はありません。


2004/05/20(木)

カネとキン

(真言宗智山派発行「生きる力 27」松平山主原稿より)

 


 「金」はカネともキンとも読む。
しかし、カネとキンでは大違い、カネは「値打ちが変わる」、一方キンは「値打ちが変わらない」、まったく正反対である。
カネと言えば、例えば、50年前の100円と現在の100円とでは値打ちはまったく違う。
いや、円もドルも毎日値打ちが変動する。
一方、キン(貴金属の金)は50年前も、いや、千年前も今も、おおむね値打ちは変わらない。

 結婚式で取り交わす指輪はゴールドかプラチナに決まっている。
高価だから、豪華だからではない。
お互いの心がいつまでも変わらないようにという戒めの意味で指輪を交換するのである。

 お釈迦さまのお姿(仏像)が金色に輝くのは、時代がどのように変わろうともお釈迦さまの値打ちは変わらない、「普遍」を表す。
お釈迦さまは2500年前にお悟りを開かれたのだが、そのお悟りの内容が2500年後の現代にまったく時代錯誤で通用しないのなら、仏教の存在価値はない。
当然お寺も僧侶も必要ない。

 今「IT革命」が声高に叫ばれている。
情報伝達手段、情報技術の進歩は今後更に目まぐるしい速さで進むであろう。
しかし、IT革命に飲み込まれぬよう厳に戒めねばならぬことがある。
それは、例えば情報には2種類あるということである。
変わりうる情報(知識)と変わらざる情報(智慧)である。
今血眼になって、人よりも速く知りたい、見たい、聞きたいとあらゆる手を尽くして追い求めている情報は、「ただ今」の情報であって、「昨日」の情報ではない。
現代人は刻々と変わり行くより新しい「ただ今」の情報に価値を認め、変わらざる情報をないがしろにしてしまっている。

 変わらざる情報とは2500年前もそうで今もそうだというたぐいの情報である。
それは命、人生、心、人間関係に関する情報、つまり生き方のコツ「智慧」である。
現代人は知識を優先するあまり、生き方のコツである智慧の伝承を怠って、閉塞状態に陥っているのではなかろうか。


2004/04/01(木)

輝いて生きる

(真言宗智山派発行「生きる力 26」松平山主原稿より)

 


 お釈迦様は今から2500年ほど前、小国ではあったが一国の王子として不足不自由のない贅沢三昧の生活を送っておられたそうだ。
しかし、欲は満たしても満たしてもなお虚しさが残り、幸せにはなれないことに気付かれて出家を決意される。
そして6年間の修行の後、35歳でお悟りを開かれた。
お悟りを開かれた後、お釈迦様は「修行完成者」と呼ばれている。それはまた人格完成者を意味する。

 お釈迦様を始めとして、仏教には完成とか完全とかいう言葉が使われる。
例えば、『般若心経はんにゃしんきょう』の「般若はんにゃ」である。
これはインドの古い言語の「プラジュニャー」とか「パンニャー」という言葉の音写で、直訳すれば「完成された智慧」を意味する。
完成という語が許されるのは仏様だけであるから、般若は「仏智ぶっち」である。
一方我々人間にも智慧はあるにはある。とりあえず「人智じんち」とすれば、人智はどこまでも未完成、どこまでも不完全ということになる。
どれほど人間経験を積もうが、どれほど高学歴であろうが、人間は死ぬが死ぬまで迷う。
人が生きると書いて人生だが、人生とは一体なんだと考えれば、幸いにも明白な解答を経文きょうもんからいただくことが出来る。
「未完成、不完全な我々が少しずつでも自己を高め、同時に自分以外の人・モノ・森羅万象しんらばんしょう全ての幸せに役立つように精進しょうじんすることによって、心を豊かにし、人格を高め、人格の完成に向かって、限りなく近づいていく営み」これが仏教徒の生きる道である。

 お釈迦様はお悟りを開かれ人格を完成された瞬間、金色に輝かれたという。
何の憂いもなく堂々と生き生きと輝かれたそのお姿に、回りの人々はまぶしいほどの神々しさを感じたのであろう。
よく有識ゆうしきの方から、「仏教は欲を離れることを目標とするのにもかかわらず、どうして仏像は欲のかたまりのようなキンキラキンにいろどるのか」という質問を受けるが、仏像が金色なのはその伝による。

 私たちも心を豊かにし、人格をより高めていこうとするその姿は生き生きと輝いているはずである。


2003/08/31(日)

仏教徒の生き方

(「千の手」36号 2003.8.9、「智山ジャーナル」26号)

 

今なぜ十善戒か?



 敗戦後の日本は廃墟の中から復興する。
そして経済成長、繁栄の時代を迎える。
しかし、繁栄は極端な繁栄・バブル経済をよびおこし、それは当然のごとく消えた。
バブルの崩壊は日本人から意欲と誇りを奪い、日本の経済は今、混迷の中にある。

 日本と日本人に戦争中の忌まわしい行為に反感を覚えながらも、東南アジアの国々の中には「日本に学べ」と日本を目標にしてきた国は多い。
かつて日本には治安のいい国、安全な国という評価があった。
日本人は勤勉で正直で仕事は正確で礼儀正しいと好意を寄せる国もあった。
しかし昨今、そのような言葉はほとんど聞かれなくなった。
親日家と言われる一国の首相ですら「もう日本に学ぶものはない」と断言し、今では「日本の失敗に学べ」と言い替えている。
経済の繁栄は魅力だが、その代償の大きさに日本が反面教師となっているようだ。
モラルの崩壊、治安の悪化、人心の荒廃は目に余るものがある。

 またある親日家が「日本に教育はない。あるのは学歴だけだ」と言いきっている。
日本の青年に未来を作る気力が育っていないとも言う。
教育とは教える事と育てること、教えることによって心が豊かに育つことを目標とする。
どれほど日本の教育水準が高かろうと、言葉使いや振舞、人に対する思いやり、公共心……、目をおおいたくなるような現状である。
まさに教育は機能せず、学歴だけが残ったとしかいいようがない。

 このような現状を憂いて真言宗智山派管長宮坂宥勝猊下げいかは仏教徒の生き方「十善戒」が日常生活の中で身につくようにと願っておいでになられる。

 そこで、檀信徒の皆様が日々お唱えされている十善戒(不殺生ふせっしょう不偸盗ふちゅうとう不邪淫ふじゃいん不妄語ふもうご不綺語ふきご不悪口ふあっく不両舌ふりょうぜつ不慳貪ふけんどん不瞋恚ふしんに不邪見ふじゃけん)をあえてご紹介させていただく所以である。



十善戒がわが身を守る



 戒とはインドの古い言葉・サンスクリット語ではシーラで「善い習慣性」の意である。
十善戒は絶対者から下される禁止命令ではない。
自発的にこの十の善い習慣を身につけていこうとする、身につけていけば家族も職場もひいては社会も清々しく和やかに心豊かになれる。
だから十善戒の実践ができること自体が喜びとなる。
我々の行いが仏さまの願いに叶うようになること自体が仏教徒の究極の目標と言っていい。

 さて、十善戒の実践は簡単なものではない。
いつも心にゆとりがあって、冷静で穏やかな気分でいられれば十善戒の実践も可能であろう。
しかしもともと人間は凡夫である。
凡夫とは迷う動物の意。人間はいつも迷う。
一瞬の感情に迷い、妄想に迷い、誘惑に迷う。
しかし、十の善い習慣が身についていれば、その習慣に反抗することは大きな心の痛みを伴うに違いない。
そこでそれがブレーキとなってかろうじて過ちを犯さずにすむということだってあろう。
十善戒が悪しき行為から我が身を守るのである。



十善戒の実践と挫折



 ここで極めて絶望的なことを申し上げて無責任だが、事実上十善戒の実践は不可能である。

 不殺生(あらゆる生命を尊重しよう)を充分承知しながら、私どもは肉、野菜……、とにかくそれを戴かない限り生きられない。
殺生をし、その多くの命の犠牲の上ではじめて生きられる。
不殺生なんて実践できるはずがないのである。
それならば、せめて手をあわせて食卓の一皿一皿に心からの「いただきます」という食前の言葉と食後の「ごちそうさま」という感謝の言葉が必要になってくる。

 「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう(すべてに仏の命宿る、すべて仏の子)」といい、この世は「まんだら」といって、「およそこの世に存在するものは必ず存在価値・存在理由があって存在する」と説き、「あらゆる命を尊重しよう」と不殺生の実践を勧めながら、我が身はどうかといえば、自分に都合の悪い動植物は排除しようとする。自分は蛇が嫌いだ、鼠やゴキブリ、ムカデや蝿や蚊……はた又雑草……これは自分に害を及ぼすから当然殺してもいい、刈り取ってもいい、といって排除する。
そのような身勝手な自分がぞっとするほど恐くなる。
自分にとって都合の悪いものは排除するという感情は紙一重で邪魔な奴は消すという殺人、戦争の論理とちっとも変わらない。

 となれば身勝手ながらそうしていかないと生きていけない我が身の性を想い、自分にとって都合の悪い害虫だからといって殺すときにも、「一寸の虫にも五分の魂」に手を合わせて詫びる思いやりの心が必要であろう。

 不偸盗(他人のものを尊重しよう)といいながら、具体的に人のものを盗みはしないということはあっても、「あれが自分のものだったらいいのにな」と人の財産、家屋敷……を羨む気持ちはいつでも起こる。
「みんな違ってみんないい」といいながら、自分よりできる人、能力のある人に心からの拍手が送れない。
嫉妬心から人の能力を邪魔する気持ちも偸盗ではないのか。
逆に人を見下す、馬鹿にする、優越感にひたることなら日常茶飯……。
なんと情けない、そんな自分にうんざりする。

 不邪淫(お互いを尊重しあおう)といいながら、具体的に女房以外の女に手を出さないまでも、……。
しょせん魅力的な異性の前では聖人君子面はもろくも剥がれる。
およそ性欲の自己抑制ほど難しいものはない。
セクハラになりはすまいかと言葉使いに気をつけ、表情に気をつけ、振舞に気をつけながらも、一瞬の魔が人生を台無しにする。
まさに薄氷を踏む思いの毎日である。

 不妄語(正直に話そう)と言いながら、自分は今日もまたうそを重ねた。
昨日も一昨日も、うそをつかない日を教えた方が早いのではないか。

 不綺語(よく考えて話をしよう)と言いながら、口先だけで飾り立てて調子のいいことを言う、相手におもねるような言い方をする。
心の中で舌を出す、なんと狡猾な自分。

 不悪口(優しい言葉を使おう)といいながら、自分はことのほか短気なるがゆえに一瞬の感情の高ぶりが言葉を粗暴にする。
言葉の暴力は刃以上に受ける側の傷は深い。
自分にだって幾つもの傷が残っているというのに、また相手を傷つけるのか。

 不両舌(思いやりのある言葉を話そう)と言いながら、相手の足を引っ張る、相手を陥れる。
中傷デマを飛ばされることくらい不愉快なことはない。
自分もかつて嫌というほど悔しい思いをしたはずなのに、なぜに相手を追いつめるのか。
 不慳貪(惜しみなく施しをしよう)と言いながら、誰だって自分には甘く、他人には厳しい。
やれグルメだ、外車だ、ブランドものだとやたらこれ見よがしに自慢する人に限って、けちとしたものだ。
いや大なり小なり誰もがみんな惜しむ心は強い。
しかし、人のことをけちだなんて、とやかく批判する自分の心のなんと浅ましいことか。
 不瞋恚(にこやかに暮らそう)と言いながら、自分はといえばついつい感情のままに不愉快になり、とげとげしく、人に当り散らしてきた。
自分の顔は残念ながら自分では自分では見られない。
おそらくひどい形相をしていることであろう。
ただただ回りを不愉快にさせる。
今まで自分がどれほど家族をそして回りを困らせてきたか。

 不邪見(正しく判断しよう)と言いながら、人の意見に耳も貸さず自分がいつも正しいと思い込み、頑固に自己主張する、そんな愚かな自分に気付かない自分、なんてことだ!
 結局事実上、十善戒の実践は不可能である。
「自分がそうなら、相手もそうだ、人間皆そんなものだ」というつもりは決してない。
少なくとも「不妄語戒」に忠実に従えば、実は自分の日常生活はこうだと言わざるを得ない。



十善戒と懺悔文ざんげもん



 実は弁明するわけではないが、十善戒なんて守れやしない。
守れやしないが、だからといって十善戒を放棄することは仏教徒であることをやめることである。
実は放棄したくなるほど挫折を繰り返しながら、十善戒は懺悔とセットで初めて存在価値・存在意義が輝き始め、機能し始めるということに気付かせてもらった。

 毎朝の勤行こそ十善戒実践の第一歩。
勤行のはじめが懺悔文で始まるのは昨日一日の出来事をふり返り反省するためである。
反省すれば、せっかく身についていた善い習慣が一瞬の感情で崩れ去るもろいことを思い知るであろう。
思い知ればこそせめて今日一日でも実践できるようにと十善戒を至心に唱えるのではなかろうか。

 知ってることと身についてることとは違う。
身につけるには毎日実践する以外に道はない。
名ピアニストと言われる人ほど毎日欠かさず何時間も練習される。
一日練習しなければ「手が落ちる、回復するのに二日かかる」とさえ言われる世界である。
十の善い習慣が身につくかつかないかも、毎朝十善戒と懺悔文を読誦し確認しつつ身につけていくものであろう。

 もう一つ、十善戒の実践が不可能であると知って、「おれは生まれてこのかた、これっぽっちも人から後ろ指を指されることなんてしていない」と断言できないことを知る。
自分自身が謙虚になれると同時に、回りの人のささいな過ちに目くじら立てることも少なくなるであろう。
また犯罪を犯した人に対しても「自分がそんな状況におかれたらおれも犯していたかもしれないな」という思いやり、反面教師と受け止められるようになるのではないか。



人生は修行



 十善戒なんて所詮実践できるはずがない。
しかし、人生は真に修行である。
完成には程遠いが完成に向かって限りなく近づく修行である。貪瞋痴(むさぼり・いかり・おろかさ)の三毒(煩悩)との戦いである。
いつも敗戦かもしれない。
しかし志を少しでも堅固に持って完成により近づこうと日々を送る。
そうすることが清々しいから、またそれが励みとなり喜びとなる。
これが仏教徒の生き方であろう。

 現代人は「帰るべき場所・依るべき場所」を失いかけている。
帰るとは「本来の元に戻る」ということ、現代人は本来の戻るべき場所を失って根なし草のようにさまよっている。
人間はいくつになっても迷う、しかし迷ったらいつでも戻れる明確な場所、いつでも明確な方角を示す磁石のような存在があれば軌道修正して出直すことも出来る。
そんな繰り返しをしながら、少しずつ完成に近づいて行くのが人生で、磁石のような存在が「十善戒」であろう。


2003/06/12(木)

観音様の心

(「月刊中日懇話会報」283号 1999.3)

 

観音様のまなざし

 私のお寺「寂光院」は別名「継鹿尾つがおの観音様」と親しまれる山寺である。
その観音様は室町時代に刻まれた千の手を持つ千手観音様である。
私の勝手な好みで評価することをお許し戴けるとしたら、とにかくお美しい。
それはほのぼのとしたぬくもりか優しさか、思慮深さか、残念ながら、私の語彙不足でこれ以上表現できないが、とにかく品格のしからしむる所であろう。

 さて、仏像はただの偶像ではない。
それは全身でこの世に存在する人々がみんな幸せになって欲しいと一生懸命になっておいでになるお姿であり、拝する人それぞれにふさわしいメッセージを伝えるお仕事をになっておいでになる。
それを伝えるためには何といっても、仏像で大事なところは目であろう。
「目は口ほどにモノを言う」といわれるが、拝する者にとって、み仏の声が聞こえてくるのは、そのまなざしからであろう。
となれば仏像を刻む仏師にとって仏眼を刻むことは全身全霊を傾ける緊張の一瞬であるにちがいない。

 さて、当山の観音様も余程の仏師が刻んだのであろう。
実に見事なまでにそのまなざしは上品で優しく暖かい。
その御前に立つと、観音様のまなざしが私を捕らえて離さない。
そして、私の心中を察するかのように語りかけて下さるのである。
しばらくの間手を合わせてたたずんでいると心が穏やかに癒されるのである。
そのまなざしで「慈悲の心」を伝えようとなさるからであろう。

慈悲ということ

 では、その「慈悲の心」とは具体的にはどのような心であろうか。
とりあえず「慈」とは「共に喜びあう心」、「悲」とは「共に悲しみあう心」といっておこうか。

 例えば喜びはお互いが喜びあうことによって喜びは確実に倍増する。
子供が学校で百点とって帰って来る。早くお母さんにそのことが伝えたくて子供は駆けて帰って来る。
「ねえ、母さん、僕ね、今日算数のテスト百点だったよ」と喜色満面で帰ってきたら、お母さんが「よかったね」と喜んで抱きしめてやると、子供の喜びは倍増する。
子供の心は穏やかになる。

 同様に悲しみごとも同じであろう。
子供がいじわるされて泣いて帰って来る。お母さんはその泣き声を聞きつけて「どうしたの」と抱きしめて聞いてやる。
辛かったこと、悲しかったことにお母さんがうなずきながら「そうだよね、そうだよね」と涙を流しながら、悲しみを分ち合ってやると子供は心穏やかになる。

 このように母は子に無条件に喜びを共にし悲しみを共にすることができる。
しかし、このような母の心は一見慈悲のようで実は慈悲ではないのである。
 子に対する無条件の愛情も所詮自分の子供に対して注ぐことはできても、決して、他人の子供にも同様に注げるかどうかといえば、まず不可能であろう。

 例えば、隣の子供が百点で、自分の子供は五十点だったとする。
この場合もわが子の時と同様に、隣の子供を抱きしめて無条件に喜びを分ち合うことができるかどうか。
きっと「こん畜生」と思うにちがいない。
もしその子が翌日ケガをして帰って来たら、素直に「痛かったよね、痛かったよね」と涙を流しながら、ケガの手当てができるかどうか。
きっと心の中では「ざまあみろ」と思うにちがいない。

 これでは決して「慈悲」とは言えないのである。
母の愛情も我が子どまりであって、これが母なるが故の性であろう。

 では、本来の慈悲とは何かというと、「仏心とは大慈悲これなり」である。
「大慈悲」の「大」が実は慈悲の心を一番的確に言いあてている。
「大」とは普遍の意、つまり「いつでもどこでも誰にでも」の意である。

 いかなる人の喜びごともわが喜びと受け止めて無条件に大切に思って下さる心、いかなる人の悲しみもわが悲しみと受け止めて、涙を流して下さる心を言うのである。
仏の心に私心はない。すべて無差別平等に愛情を注ぐことができるのである。
この心を慈悲という。
観音様を拝するとき、拝する人の心が癒されるのも、その人の心に慈悲の心が伝わるからであろう。
とにかく観音様は全身全霊で、この世に存在するすべての人々の幸せを願っておいでになる、その心を慈悲というのである。

 しかし、観音様の一番重要なメッセージは、この世の人々が「慈悲の心を」少しでも育むことができるようになってほしいということ、このような優しいまなざしをこの世の人々がそれぞれ持ってほしいということである。
混迷の現代に観音様はそれを強く願っておいでになるに違いない。


2003/05/02(金)

不殺生 ‐殺してはいけない‐

(「中日新聞」2003.4.13)

 

正義の戦争なんてない
怨み捨ててこそ怨みは止む

 正義の戦争なんてない。殺しあいが正当化されること自体が悪である。
 なぜ人を殺してはいけないのか、という「なぜ」に対する回答は十人十色、千差万別であろうが、結論はすべて「だから殺してはいけない」ということにつきる。


 釈尊は次のように説いておられる。

 すべての者は暴力におびえている
 すべての者は死をおそれている
 (他人を)自分の身にひきあてて、殺してはならない
 殺させてはならない
 (殺すことを傍観してはならない)。

(法句経129)


 立場を変えれば、あらゆる人も動物も、およそ生きとし生けるものはみな暴力におびえ、死をおそれている。
誰でも我が身が愛しい、我が子が可愛い。立場を変えれば、世界中の人がみな同じ思いのはずである。
私は刻一刻とイラクから報道されるテレビの映像をなすすべもなく傍観していた自分に気付いて仏教徒として情けなかった。
今はだた人道的な早期復興と平和の回復を祈るばかりである。

「やられたらやり返す」、この報道の連鎖はまさに人類始まって以来終わりを知らない。2001年9月11日の同時多発テロ以来、超大国は報復の鬼と化した。

 釈尊は次のように説いておられる。

 怨みに報いるに、怨みをもってすれば、ついに怨みの止むことなし
 怨みを捨ててこそ怨みは止む。

(法句経5)


 この句を天台宗の最澄伝教大師は次のようにおっしゃっている。

 怨みをもって怨みに報ぜば怨み止まず、徳をもって怨みに報ぜば怨み即ち尽く。



 かつて折あるごとに幾度となく唱え、それなりに納得してきたこの経文も、いざその立場に立つと実行は極めて難しい。
「畜生!あの野郎……」とやり場のない怒りで幾日ものたうち回る。
幸いにも、時日のおかげで少しずつ冷静さを取り戻してくると、「忍」が「認」に変わってくる。
なぜ相手がこのような行動を起こしたか、自分が今迄相手に何をしてきたかに思いが巡る。
怨みを捨てるとは耐え忍ぶこと、それは決して泣き寝入りではない。
報復の感情に打ち勝ち、報復の連鎖を断ち切る勇気のことであろう。
「認」が「赦」に変われば次に、自分と相手の共生の道を模索し始めるのではないか。
自分さえよければという内にしか向かない目が、相手はどうかと外を向き始める。
まわりも幸せになってほしいと祈る気持ちに変われば、これを「徳」というのであろう。

 釈尊はまた次のように説いておられる。

 己こそ己のよるべ
 己をおきて誰によるべぞ
 よく整えし己にこそ
 まこと得がたきよるべをぞ獲ん。

(法句経160)


「自分がしっかりしなくてどうする、人を頼るな」と主体的に生きることを願っておいでになる。
しかし、主体的に生きることと独善的に生きることは大違いである。
誰も一人では生きられない。お互いが支えあい、補いあい、天地自然に生かされて生きている。
この世にはいろんな人種、いろんな宗教、いろんな考え方がある。
お互いの存在を認めあい、お互いの違いをわきまえながら、この宇宙船地球号が無事航海できるようにと願って生きる、これがよく整えられた己の生き方であろう。
他人の意見には耳を貸さず、誰とも協調できず、好戦的に我が意をごり押しするのは、ひとりよがり、独善的であり、糾弾されるべきである。
一方、自分の意見も持たず、是非善悪の立場も明確にできず、ただやみくもに独善者に追従するのは同罪と言っていい。


 また釈尊は次のように説かれる。

 満足は最上の財産(たから)
 信頼は最上の縁者(えにし)
 心の安らぎこそは最上の幸せなり。

(法句経204)


 正義の戦争なんてない。
 どれほど正義を唱えようと、戦争は飽くなき己の利権のためである。
 足るを知る「知足」と「信頼」こそ、宇宙船地球号が心安らぐ安全な航海を続けるのに必要なキーワードであろう。


2003/03/22(土)

おのれこそ

(「中日新聞」2002.12.29)

 

見失った良心、自己、家庭 取り戻そう

 とにかく便利な時代になった。
「かけたい時がかける時」、携帯電話の出現でいつでもどこでも電話はかけられ、パソコンの普及で最新情報がいつでもどこでも気軽に入手、発信できる。
しかし、所構わず電話の着信が鳴り響き、慌てて電話を取り出す人々、あたり構わず声高に話す人々、暇さえあれば携帯電話と首っぴきでメールを打つ人々、最新情報に遅れまじと車中でもパソコンにしがみつく人々の姿を見て哀れに思う。
情報に翻弄されて右往左往、人の迷惑を顧みず、この世で何をおいても大事なものの優先順位が携帯電話やパソコンとは何とも悲しい風景である。
現代人は便利な機械や道具に頼って生きている。しかし、その機械や道具に使われてヘトヘトになっているようにもみえる。
現代人は大事なものを見失ってはいないか。


 景気低迷の時代ゆえか、利を焦って不祥事を起こす人々が後を絶たない。
いや、財のみならず政も官も法も医も、とにかく各分野、業界業種を問わない。
異口同音に「みんながやっている、見つからなければいいじゃないか」、見つかっても「お詫びの記者会見」で一件落着。
あとは七十五日待てばいい。人の噂も七十五日、かくて不祥事は再生産される。
一連の不祥事の共通点は良心の呵責・罪悪感のかけらもみられないことである。

 もともと完全な人間なんていない。
誰だっていつも悪魔のささやきに迷い、間違い、失敗だらけの人生だが、幸いにも過ちを犯したら迷いから覚めて、本来の自分《自己》に立ち戻る。そこで自己の良心や罪悪感との対話が始まり、二度とすまいとブレーキがかかる。だから私たちは救われ、人生の幅も広がり、人は成長するのである。
現代人はどうも《自己》を見失っているのではあるまいか。


 昨今、「三度の食事」という言葉は死語になり、代わって「食べたい時が食べる時」となった。
いや、ひもじい思いに耐えている内外の人々にお詫びしつつ付け加えれば、「空腹」という言葉も聞かれなくなった。
スーパー、コンビニエンスストア、ファストフード店が安さ・うまさを競い合うおかげで、いつでもどこでも、気軽におなかを満たすことができるようになった。
同時に家庭の台所は無用の長物となりはじめた。
家族一同が集まる団欒は姿を消し、家族はばらばらで生活をし始めた。
当然のこと家族の絆は崩壊し、家庭はただ寝に帰る場所・ホテルに成り変わり、さらには寝に帰ることもできないホームレスの人々を多く生み出すことになった。

 「家庭」とはまず「帰るべき場所・戻るべき本来の場所」である。
帰るべき場所があるから仕事の辛さも、学校でのいじめにも耐えられる。
さらには「癒やしの場所」である。会社や学校で周りがみな敵だらけであっても家庭では誰か必ず一人は味方になってくれる家族がいる、だから帰る気になるのである。
喜びごとがあればいち早く喜びを分かち合ってくれる家族がいる、悲しみにうちひしがれても心底悲しみを分かち合ってくれる家族がいる、だから帰る気になるのである。

 その「家族」は「かまどをともにする人々」を言う。一般に「同じ釜の飯を食った仲」は連帯感・絆が強い。
たとえば戦友会、同窓会……、ただ黙って同じ釜の飯を食べたわけではない。
彼らはお互いが忌憚なく語り合いながら苦楽を分かち合ったという共通項がある、だから絆が強い。
昨今家族が夕餉の団欒を失って、家族の絆は崩壊し始めた。
現代人はどうも「家庭」をないがしろにしているのではなかろうか。


 時代はどんどん便利になっていく。その恩恵に浴しながらも、なお自分を見失わないように心せねばならない。
釈尊のご遺言の一つに「自灯明(自らをともしびとせよ)・法灯明(法をともしびとせよ)」がある。

 自灯明については「法句経160」に「おのれこそおのれのよるべ、おのれをおきて誰によるべぞ、よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべをぞ獲ん」とある。
頼るべきは本来の自分(自己)、頼るべき自己になるためには自己を良く整えなければならぬ。そのためには法(釈尊の教え)をよるべとして自己を高めていくしかないであろう。

 「帰依」という言葉がある。仏教徒の帰るべき場所・依るべき場所、「よるべ」はまず自己、そして法である。

 ちなみに12月12日に恒例の全国公募の今年の漢字が「帰」と発表された。わが意を得たようで嬉しかった。


2003/03/14(金)

いかなる戦争も反対する!

(「法句経」より)

 

《不殺生戒》

すべてのものは暴力に脅えている
すべてのものは死を恐れている
(他人を)自分の身にひきあてて、
   殺してはならない。
   殺させてはならない
   (殺すことを傍観してはならない)

法句経129

《怨念》

怨みを以って怨みに報ぜば怨み止まず
徳を以って怨みに報ぜば怨み即ち尽きん

法句経5番

《自灯明》

己こそ己のよるべ、
己をおきて誰によるべぞ
よく整えし己にこそ
まこと得がたきよるべをぞ獲ん

法句経160

《幸福》

 健康は最上の利益(めぐみ)
  満足は最上の財産(たから)
   信頼は最上の縁者(えにし)
心の安らぎこそは最上の幸せなり

法句経204